R-magazine-vol7

D r . K A W A H A R A page5 昭和40年 福岡県北九州市生まれ 九州大学医学部卒、九州大学医学部附属病院、広島日赤 原爆病院で研修。1997 年同大学大学院(外科学)修了。 1998 年在タンザニア日本大使館 ( 二等書記官兼医務官 )、 2001 年在英国日本大使館 ( 一等書記官兼医務官 )、 2002 年在スーダン日本大使館 ( 一等書記官兼医務官 )、 2005 年外務省辞職、2006 年 NPO 法人ロシナンテス設 立、理事長に就任しスーダンでの医療支援活動を開始。 2011 年から 15 年まで東日本大震災の支援を宮城県名取 市、岩沼市、亘理町などで行う。 2019 年からザンビアで医療支援活動開始。 九州大学客員教授、長崎大学客員教授、熊本大学薬学部 臨床教授。高校大学とラグビー部に所属。 外務省辞職 2002 年、内戦下のスーダンに行くようにと辞令が 下った。妻と 3 人の子供を連れての赴任である。 当時は政治的な影響があり、日本政府からスーダン 政府への二国間援助が完全に停止していた。 そのため、国際協力の要である JICA がなく、日本 人として商社マンも一人も滞在していなかった。 確か邦人が合計で 25 名であった。日本からの要人の 訪問者もなく、タンザニアのような仕事もできなかった。 そんな中、エボラ熱や黄熱の流行などがあり、可能 な範囲で医務官として働いた。 国連の WHO や UNICEF またハルツーム大学医学部 の先生と地方の視察に行った。南部スーダンでは内 戦の影響で銃創の患者、東部では顧みられない熱帯 病の一つであるリーシュマニア症の患者が多くいた。 視察したエチオピア国境付近の病院では、施設内に 患者が入りきれずに木の下にベッドを置き、そこに 複数人で横たわっている。目の前に苦しんでいる患 者を見て、何もできない。 外務省にいれば、そこのルールに従う必要がある。 私が患者を診ることで日本政府がスーダンに援助を 再開したと捉えられる可能性もある。 そう考え、外務省を辞めた。 2005 年のことである。 NAOYUKI KAWAHARA 川 原 尚 行

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